クラウス・マケラ指揮パリ管弦楽団

 クラウス・マケラは26歳にしてオスロ・フィルとパリ管弦楽団の要職に就き、更には世界最高のオーケストラの一つ、オランダの王立コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者となることが予定され…などの能書きはともかく、この日眼前に現れたマケラの、神々しいまでの圧倒的存在感は何なのだ。まずステージ上の立ち居振る舞い。曲を始める前に肩幅くらいに開脚して指揮台上で構える、あのポーズからして五輪代表の体操選手のように美しい。その後の指揮台上の動きも流麗で、舞踊的ともいいたくなる。その華麗さを象徴していたのはプログラム後半「春の祭典」第1部。「大地の踊り」の喧騒からの突然の静寂。そのときマケラは右腕を高く挙げ、手にしていた指揮棒は高く天を指していた。え!?なんかロックスターみたい!あんたフレディ・マーキュリーかよ!それともマイケル・ジャクソンですか!? こんな姿を、クラシック音楽のコンサートで見せつけられるとは思いもしなかった。

 そんなクラウス・マケラの指揮者としての仕事はどうだったか。この日のプログラムは20世紀前半のフランス音楽が並んだ、まさに「100年前のパリのコンサートホールでどんな音楽が鳴っていたか」的なものであったが、指揮者とパリ管弦楽団はその時代の特徴を見事に描き、表現していた。最初の曲であるドビュッシー「海」を特徴づける音楽的明暗の表現、「闇」から「光」、そして逆に「光」から「闇」へと移ろう音楽の、その明暗のコントラストは出色であった(マケラが来日中に撮影し、SNSで公開した画像を想起させた)し、それ以降の楽曲(ラヴェルボレロ」とストラヴィンスキー春の祭典」)においても大編成での楽器の音が混ざり合う、その色彩の妙を愉しむことができた。

 だが、マケラの指揮者としての特徴は、別のところにあるように感じられた。ひとつは各パートの奏でる音、そのひとつひとつがどれも明瞭に耳に届くし、そしてどの音にも音楽的意味が感じられたこと。一音一音がとても丁寧で、なんらかのニュアンスが込められたり、一ひねりが加えられたりしているのだ。まるで一手ずつ慎重に駒を指していく棋士のように、熟考を重ねながら音が繰り出されていく。結果として重々しいサウンドにはならないのだが、その慎重な音楽作りが実に若手らしくないというか、ベテランでもここまで丁寧にやらないだろうなあ、というくらいのレベル。

 もうひとつ。マケラはスコアに書かれた音の数々を実に形よくデザインし、立体的な交響楽に仕立てる能力に秀でているように感じた。作曲家の脳内の設計図を楽譜にしたスコアがそのまま音になり、さらにそれが美しいフォルムとして造形されている。これはまさに優秀なデザイナーの手によって生み出された工業デザインのごとき世界観だ。

 以上二つの特性が一番発揮されていたのは「ボレロ」。おなじメロディーが何の変形もなく最後まで続いていく作品。代わりに変化するのは音色(=楽器)、そしてダイナミックス。なのだが、そのなかでもマケラはサキソフォーンだったりトロンボーンだったり、各シーンでちょっとずつニュアンスを変えていき、結果として音楽表現の「幅」に広がりを与えていた。一方楽曲のフォルムという点においては、スネアドラムと同じリズムを刻む楽器が、とても適切かつクリアで、かつ「いい音」で聴こえてきた(とくにファゴットとホルンが吹いていた場面)。これにより「ボレロ」の曲の構造が明確となり、音楽的造形美が生み出されていた。

 ドビュッシーの「海」に話を戻す。第3楽章後半のクライマックスで、いろんな音が束になって押し寄せてくる、その瞬間のとても輝かしい響きを耳にし、なぜか「ああ、彼がいればクラシック音楽もあと数十年は滅びることなく生き残るかもしれないな…」と思ってしまい、そして泣けてきた。まさかこの曲で…と思いつつ、人生も第4コーナーに差し掛かると、そんなこともあるかもな。。。

 

Program Note;

Date: October 23, 2022

Venue: The Festival Hall, Osaka

1. Debussy: La Mer

2. Ravel: Boléro

3. Stravinsky: Le Sacre du printemps

4. (Encore) Sibelius: Valse Triste (in memory of Philippe Aïche)