濱田芳通&アントネッロ 第22回定期公演 G.F.ヘンデル オラトリオ 時と悟りの勝利

 

 アントネッロのヘンデルといえば、2年前サントリーホールでの天覧歌劇「リナルド」の記憶も新しいところ。笑いの要素を織り交ぜながら、高い技術を持った歌手たちと奏者たちが生み出す、血の通ったドラマを大いに楽しませてもらった。メロディはいいんだけど台本が…アリアもダ・カーポで反復が多くて間延びしがち…という弱点を抱えるバロック・オペラを現代舞台に上げるときの最適解のひとつをアントネッロの舞台は示しているのではないか。あ、今回はオペラでなくオラトリオですが、当日会場で販売されていたプログラムにも書かれているように、オペラ禁止令が発令されていた作曲当時のローマでは、代替的にオラトリオが盛んに作曲され演奏されていたという時代背景がある。「時と悟りの勝利」自体、装置付演出付で舞台上演されることもあるので今回の舞台は無問題。「リナルド」で芸達者ぶりを発揮していた歌手四人は今回も出演する。ということでぶっちゃけ笑わせてもらいに東京・晴海まで来た、といって過言ではないし、今回も爆笑させてもらった。アントネッロの舞台には欠かせない小道具(今回は「魔法のスティック」)も効果的だったし、第一部からの休憩前にいきなり始まった漫才チックなトーク・シーンに会場はどっと沸いた。そんな小芝居を見せられても全然違和感がないのがアントネッロの舞台の恐ろしいところなのだが、そんな笑い要素以上に今回感じたのが、濱田芳通のヘンデルならびに当時の音楽への精通ぶりである。今回「時と~」以外のヘンデル作品の幾つかが挿入され、さらには初演当時のコンサートマスターだったコレッリ(!)にちなんでか、彼のコンチェルトなどからもすこし借用していたという。私の驚きは、それらが継ぎはぎのパッチではなくドラマの流れを損なわない範囲で「活用」されていた点にある。正直どこまでがオリジナルでどこが借用だったのか解らないところだらけだったけど、それを感じさせないほどシームレス。そのあたりの絶妙なところを突いてくるところに、濱田芳通の音楽家としての「技」を感じた。あとプログラムに明記されていた以外で、わたしの大好きなヘンデルのリコーダー・ソナタ(HWV360)の一節が聞こえてきたんですが、これは元々原曲にあるんでしょうか。
 この日の「時と悟りの勝利」を楽しみながら、個人的には過去の音楽体験に関連する、2つの音楽的「繋がり」を感じた。1つは、2年前の「リナルド」で聴いたアリア「私を泣かせてください」が「時と~」でも重要な場面で歌われたこと。これは順序が逆というか、「時と~」のアリア「Lascia la spina(棘が付いたまま)」の旋律をヘンデルがのちに別作品に転用したわけですが、「リナルド」で囚われの身のアルミレーナが主人公への思いを込めた歌と、「時と~」でベレッツァ(「美」)の心が自分から離れようとするのを諭すピアチェーレ(「快楽」)の歌、その2つが見事に脳内で重なったのだ。弥勒忠史さん、見事でした。
 もうひとつ感じた「繋がり」。これはホントに個人的なものなのだがアーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが2006年の来日公演でヘンデルの「メサイア」を演奏したことがあって(さらりと書いているけど、今から考えるとすごい出来事ですね…)、そのときのアーノンクールの解釈があまりに劇的過ぎて、ノイズを恐れない激しい弦のサウンドなど「なんもそこまでやらんでも…」と逆にひいてしまったのだ。当時の自分は主の復活を祝う厳かさを作品解釈に求めていたのだと思う。あれから20年。昨日の濱田芳通とアントネッロのヘンデルは、あのときのアーノンクールに比肩する、いやそれ以上にパッショネート(情熱的)でアグレッシブであったが、古楽器運動の先駆者アーノンクールのアグレッシブな精神、その表れが20年前の「メサイア」だったのだ、と今やっと悟った。そう、わたしも「悟り」を得たのです。

<Program Note>
Date: 13 June 2026
Venue: Dai-ichi Seimei Hall, Harumi, Chuo, Tokyo
Georg Friedrich Händel: Il Trionfo del Tiempo e del Disinganno, HWV 46a

Bellezza: Miki Nakayama
Piacere: Tadashi Miroku
Tempo: Katsuhiko Nakashima
Disinganno: Toshiharu Nakajima
Orchestra: Anthonello
Conductor and recorder: Yoshimichi Hamada

京都市交響楽団 プロコフィエフの陣~交響曲全曲演奏会 「壱」

 3年前(2023年)の4月の第677回定期で、沖澤のどかの指揮する京都市交響楽団(以下「京響」)の演奏に接して以来、意識的にこのコンビの演奏には足を運ぶようにしている。沖澤の明確でブレがない指揮の所作から生まれる小気味の良い音楽の心地よさと、いろんな音が重なり大音量となったときの響きの豊かさが気に入っている。この特徴は2024年の第685回定期(オネゲル/タイユフェール/イベール/ラヴェル)のフランス・プロや第704回定期(リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」がメイン)でもそうだったし、「英雄の生涯」(第698回、2025年3月)「ドン・ファン」「家庭交響曲」(第710回、2026年4月)といったリヒャルト・シュトラウス作品でも変わることがない。その高いクオリティを持続させている点も個人的に評価したいところだ。

 京響の創立70周年記念事業のひとつとして開催された「プロコフィエフの陣」と題された交響曲全曲演奏会の第1回、というかプロコフィエフ交響曲全曲演奏会という企画自体、世界的にも稀なイベントなのではないだろうか。作曲家としてのプロコフィエフのキャリアを振り返るうえで欠かせないのは5曲あるピアノ協奏曲であるが、交響曲もちょうどいい長さでプログラムを組むうえで使い勝手のいい「古典交響曲」(第1番)や大作「交響曲第5番」だけでなく、最近では「第6番」「第4番」なども演奏会で取り上げられる機会が増えているように感じる。そんななか、15曲あるショスタコーヴィチの半分以下の7曲を全曲演奏しましょう!という行為は素人目には容易に映るが、「第2番」「第3番」「第4番」と20世紀モダニズムの空気を一杯吸い込んで一気に吐き出したような作品群が、その目論見を躊躇させる大きな要因であることも容易に想像できる。まずはこの前代未聞のプロジェクト企画を立ちあげて実現させた楽団に敬意を表したい。

 コンサートでは「古典交響曲」(第1番)「第2番」「第3番」と作曲順、番号順に演奏された。最初の「古典交響曲」、「もしもハイドンが今(=20世紀初頭)でも生きていたら書いたであろう作品」という、どんなレコードやCDのリーフレットにも書いてある作曲家の意図を、沖澤率いる京響はとても音楽的に好ましい形で具現化していた。「交響曲の父」へのオマージュを感じさせる音の「仕掛け」の数々、面白い音の動きだったりデフォルメだったり、それらを丁寧に拾い上げて表現していく手際よさは見事。あと子守歌のような第2楽章の優しい静けさが印象的だった。あれ聴きながらわたしは「驚愕」交響曲の第2楽章冒頭部を思い起こしていた。ハイドンみたいに「ジャン!」というオチはないけどね。

 「第2番」は以前ロストロポーヴィチ指揮だったかの録音で聴いたことがあって、熱い蒸気で鉄の塊が押し出されるかのような音楽的パワーに圧倒、いや辟易とさせられたので「あまり好んで聴くモンではないな…」と敬遠し遠ざけている作品だった。なにしろ聴き手にかかる「圧」が半端ない。別の表現で例えると、重いダンベルを持ち上げるトレーニングの傍らで「まだいける!」「もっといける!」とコーチから発破をかけられているような。これは音楽的筋トレといってもいいのでないか。鼓膜に付いた小さな筋肉にはいい運動かもしれないが。ともあれこの日の沖澤と京響が発する、圧倒的でフル稼働する工場内のような威圧的な音圧の持続にねじ伏せられた。だが一方で、意外な楽器、意外な音の重なりで聴衆に驚きを与える、プロコフィエフの音楽的特徴も大いに楽しんだ。「こんな音色を重ねたら、こんな音がするんだ…」「この音を一緒に鳴らしたら、こうなるんだ…」という音楽的発見は、後年の「ロミオとジュリエット」でも見られるもので、作曲様式の変遷を続けたプロコフィエフにおいて一貫してみられた作曲上の特徴でもある。

 「第3番」は歌劇「炎の天使」の主題を題材にした交響曲。優れた音楽的要素が随所にある「炎の天使」、個人的には第2幕のノックのシーン、それに続くレプレヒトとアグリッパの絡みのシーンでの音楽がとても好きなのだが、その場面の音楽はそれぞれ第3楽章と第4楽章に生かされている。超常現象と幻覚妄想が入り混じったオペラの雰囲気を想起しながら身をゆだねたが、京響の全力フルパワーなサウンドは実に鮮烈。京都・北山のコンサートホールが悪魔たちの邂逅する音楽的地獄絵図となった、といっても大袈裟ではない。だがここまでの大音量であってもクリアな音の響きと情報量があり、確かな音楽的充実感があるのも沖澤&京響コンビの恐ろしいところである。

 プロコフィエフの陣は「壱」のあと、7月には「弐」、11月の「参」が控える。「壱」のクオリティがこのまま維持できれば、芸術的成果は多大なものとなるだろう。そして同企画を1回きりで終わらせず、東京でも再演してみてはと思う。世界一厳しい東京の観客たちにどう届くか、トライして欲しい。

 

<Program Note>

Date: 3 May, 2026

Venue: Kyoto Concert Hall, Japan

1. Prokofiev: Symphony No.1 Op.25. “Classical”

2. Prokofiev: Symphony No.2 Op.40

3. Prokofiev: Symphony No.3 Op.44

Conductor: Nodoka Okisawa

Kyoto Symphony Orchestra

イム・ユンチャン ピアノ・リサイタル

 最初の2、3音から穏やかでない「気配」を感じた。スクリャービン「ピアノソナタ第2番」のファースト・コンタクトでザ・シンフォニーホールの聴衆は日常とは異次元の世界に誘われ、そこからはひたすら、音楽という名の妖気の乱放射を浴び続けた。これは現か幻か。もう単なるピアノ演奏を超えた次元の、エネルギーのたぎる芸術の塊の現出に触れるような、いやその熱気故に触れることもはばかられるほどだった。
 先月22歳になったばかりのイム・ユンチャンが、どのようにしてこんな境地に達することができたのかは、わたしには知る由もない。彼をスターダムに押し上げた3年前のヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールの準備のため、彼は1日20時間を費やし練習に明け暮れ、その合間に家族の用意してくれた韓国式ラーメンが彼のエネルギーの源になったという(※1)。猛練習もラーメンも、いまのイム・ユンチャンの音楽を形成する要素の一部なのかもしれない。
 だが、それだけではないだろう。ヴァン・クライバーン優勝当時、高坂はる香さんの質問を受けて「私が最もインスピレーションを受けているのは、古いロシアン・スクールのピアニストたちです。例えばウラディーミル・ソフロニツキーや、マリヤ・ユーディナ。」と述べている(※2)。これを目にした私は、いにしえの名ピアニストの演奏に情熱を傾ける韓国の若手の発言に軽く驚くとともに、ロシア・ピアニズム好きの自分として素直に嬉しく感じた。
 さて、イム・ユンチャンのスクリャービンは、彼のソフロニツキーへのリスペクトを強烈に感じるものであった。作曲家の娘婿でもあるレジェンドのように、テンポは揺さぶられフレーズにはデフォルメが加えられ、その表現は実にグロテスクで聴き手を戸惑わせた。だがその音楽が放つ、とてつもない熱波!音楽家としての本能的な感覚がそのまま発露された官能的表現。これこそソフロニツキーと彷彿とさせる「何か」であった。
 このピアニストならではのオリジナリティを感じる要素もあった。当日は第2番→第3番→第4番と3つの作品が休憩を挟まず、まるで1つの作品のように演奏された。このアイデアはとくに、「第2番」から「第3番」の冒頭部の打鍵へと、ほとんどシームレスに移行した際に、とりわけ劇的な効果を発揮していた。また「第4番」には「第3番」と類似のフレーズも散見され、音楽的要素の連続性も効果的に感じられた。このプログラム構成をしよう、という独自のアイデア。それを積極的に取り入れる。その「着想」こそ、彼の演奏解釈の根幹ではなかろうか。
 スクリャービンの前にはシューベルト「ピアノソナタ第17番」が演奏されたのだが、当日の私は何とも複雑というか、正直に言うと軽い反発を感じた。わたしがシューベルトに求める「落ち着き」に乏しく、なにかバタバタしたような印象を受けた。第1楽章出だしのフレーズの慌ただしさが、そのイメージを植え付けたのかもしれない。ただ一寝入りして翌日に、すこし冷静に振り返ってみた。イム・ユンチャンはこの作品にも「こう表現したい」とアイデアを膨らませ、それを感じるままに表現したのではないか。時代考証だとか、楽譜に忠実だとか、音楽に「正しさ」を追求する道ではなく、オルタナティブな道。それがシューベルト的なるものと合致していたかはわからない。だがそう考えることで、第1楽章冒頭部のあの慌ただしさも、なんだか軽やかな歩みのように好意的にとらえることが出来た。

Program Note;
Venue: The Symphony Hall. Osaka, Japan
Date: April 11, 2026
1.    Franz Schubert: Piano Sonata in D major D. 850
2.    Alexander Scriabin: Piano Sonata No. 2 in G sharp minor Op. 19
3.    Alexander Scriabin: Piano Sonata No. 3 in F sharp minor Op. 23
4.    Alexander Scriabin: Piano Sonata No. 4 in F sharp major Op. 30 
5.    (Encore): Sergei Rachmaninoff/Yakov Zak: Vocalise Op.34-14
Piano: Yunchan Lim

 

(※1)
https://www.nytimes.com/2023/05/09/arts/music/yunchan-lim-new-york-philharmonic-rachmaninoff.html
(※2)
https://ebravo.jp/archives/121426

東響春祭 歌曲シリーズ vol.43 クリスティアン・ゲルハーヘル&ゲロルト・フーバー

 歌曲を聴く喜びとは…。歌手の声自体を楽しむ喜びもあるけど、歌詞に込められた風景だったり描写だったりを想像しながら楽しむ喜びもある。この日はロベルト・シューマンのドイツ語歌曲のみで構成された、純度100%のリーダー・アーベント。ドイツ歌曲で描かれる自然描写は、いつも私の想像力を掻き立てられる。森、花、鳥、風、太陽、雲…。そんなキーワードから感じられる、百年以上昔にドイツにあった自然を、日本にいながら思い起こし感興にひたっていた。

 そして歌詞に寄り添う自然で無理のないロベルト・シューマンの音楽が素晴らしい、と改めて思った。シューマン交響曲に大規模な合唱作品まで手掛けた、作曲界の百貨店的存在だが、わたしは歌曲が一番好きだ。彼の歌曲は音楽的だけど、そのメロディは詩の世界と干渉せずむしろ共鳴していて、文学的でもある。

 この日のゲルハーヘルの歌唱はコンディションも良好で、彼と共演者フーバーによって人間的な様々な情感が吹き込まれた音楽が、聴き手を魅了する。彼らは風か鞴(ふいご)の如くに音楽という火に勢いを与え、それによって活力を得た芸術的「炎」が聴衆たちの心を温かく照らしていった。

 アンコール3曲のうち、最後に演奏されたのは「二人の擲弾兵」作品49-1だったことも書き漏らしてはならない。ロシアから帰還するフランス兵たちの思いが「ラ・マルセイエーズ」の旋律に乗せて歌われる。これを2025年3月22日のいまこの時、どう捉えるか。宿題を与えられた塾生のような気持ちで帰路に就いた。

 

Program Note;

Date: March 22, 2025

Venue: Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall

1. Robert Schumann: Sechs Gesänge, op.107

2. Robert Schumann: Zwölf Gedichte von Justinus Kerner, op.35

3. Robert Schumann: Drei Gedichte aus den Waldliedern von Gustav Pfarrius, op.119

4. Robert Schumann: Drei Gedichte von Emanuel Geibel, op.30

5. Robert Schumann: Sechs Gesänge von Wilfried von der Neun, op.89

6. Robert Schumann: Lieder und Gesänge IV, op.96

(Encore)

7. Robert Schumann: Venetianische Lieder Nr.1, op.25-17

8. Robert Schumann: Aus den östlichen Rosen, op.25-25

9. Robert Schumann: Die beiden Grenadiere, op.49-1

Bariton: Christian Gerhaher

Piano: Gerold Huber

京都市交響楽団 第698回定期演奏会

 産休を終えて指揮者としての活動を再開した沖澤のどか(誠に遅ればせながらではありますが、おめでとうございます!)が、現在常任指揮者を務める京都市交響楽団リヒャルト・シュトラウス交響詩英雄の生涯」を演奏することは「必須科目」である、とコンサート前のプレトークで語った。それをどう解釈するか。

 「英雄の生涯」に対して私が抱く感情は実にネガティブ。リヒャルト・シュトラウスが自らを「英雄」と名乗った、美しい伴侶を得た作曲家はなにかとケチをつける批評家との偉大なる戦いに勝利し、その業績を回顧しながら輝かしい人生を閉じる。これは若い頃の私が過去の日本の批評家たちによって刷り込まれた悪しきイメージに他ならないのだが、そんな印象を見事なまでに体現したのがヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルによる英雄の「偉大さ」、男性的な「猛々しさ」を前面に押し出した演奏であった(※個人的には1974年録音のEMI盤を想定しておりますが、1959年録音のDG盤でも可)。この曲の主人公に狂おしいまでにフォーカスし尽くした演奏、指揮者の個性(もしくは偏見?)と見事にシンクロしているかの如く主人公たる「英雄」の男性的な魅力にフォーカスしている。

 一方2025年3月14日に京都コンサートホールで展開された「英雄の生涯」はどうだったか。この演奏における英雄もといヒロインは、コンサートマスターの会田莉凡であった。彼女の「英雄の伴侶」ソロパートでの存在感の高さは実に傑出していた。その気品にあふれ、かつ説得力のある演奏に対し、低弦パートが未だかつて聴いたことがないような次元での繊細なニュアンスで呼応していた様は、曲の出だしではじつに青臭さ満載だった「英雄」に対し何等かの人間的な成長を促す「意思」や、人生を渡り歩く「教示」を提示する女神のようであった。そして曲の終結部においても会田さんのソロは、その安らかな響きで曲を大団円へと導く水先案内人役として主導権を握っていた。

 「英雄の生涯」は、ヴァイオリンソロが曲の性格を決定づける誠に恐ろしい作品なのだが、この日の演奏で私たちに提示された解釈は、20世紀的な「雄々しさ」とは違うかたち、「ヒロインによって導かれるヒューマニズム」をテーマにすることを最高な形で提示したことをポジティブに受け止めた。あとその他のパートにおいても、沖澤さん率いる京響のオケの統率力は見事なものであった。強奏部においても楽譜に潜む重要な音の提示が手際よくて鮮やか。それがリヒャルト・シュトラウスの音楽のもつ「豊かさ」を如実に表していた。

 陳銀淑の「Subito con forza」は、最初の「コリオラン序曲」を想起させる冒頭部から、さまざまな音の重なりがなかなかスパイシーであった。ただこの4,5分で終わる小品が終わって、配置転換に数分を要したことで少し間延びした印象を与えた。出来れば「英雄の~」と編成が似通った作品にして曲間を短くしてほしかった。

 

Program Note;

Date: March 14, 2025

Venue: Kyoto Concert Hall

1. Unsuk Chin: Subito con forza

2. Richard Strauss: Ein Heldenleben.

Conductor: Nodoka Okisawa

Kyoto Symphony Orchestra

愛知室内オーケストラ 第59回定期演奏会

 プログラムが発表されたときからとても楽しみにしていた演奏会。それはひとえに(若手ヴァイオリニストとして以前から注目している)「石上真由子さんがアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲を弾く」という好機を逃してはならない、という強い思いなのであったが、その演奏への期待は想定を遥かに超える音楽的充実感でもって叶えられた。それは作品の持つヘヴィーなテーマ、ヘヴィーな音楽世界を一手に背負う責任を担い、それを完遂したソリストの勝利でもあり、彼女とともに作品の世界を構築し、それを完全に近い形で達成した愛知室内オーケストラ、そして統率した指揮者である小林資典さんの勝利でもあった。更に言えば、第1楽章11小節目以降のコントラバスの重要なソロ(席次表によると池松宏さんが担当)が、曲のリチュアルな性格を如実に表現していたことで、この日の演奏が勝利に終わることを予感できた。セリーだったりコラージュだったり舞曲だったり、走馬燈のように登場しては消える幾多のモティーフが丁寧かつ対等に扱われ、それによってアルバン・ベルクの音楽が流れを損なうことなく表現されていた、という事実が素晴らしかった。音は触ることができないものだけど、そのことが手に取るようにわかった。これはとても貴重な体験であった。
 この体験はベルク作品以外でも同様であった。シェーンベルクのワルツ集は「こんな作品があったのか!」というサプライズであった(ヴィオラの加納明美さんGJ!)し、休憩後のシューベルトモーツァルトの2曲も、音楽自体の持つ性格を十分に表現していた。これは小林さん率いるオーケストラ団員一同の水準の高さ故であろう。愛知室内管は先月、日本オーケストラ連盟の準会員となった、とのことで今後の活動に期待したいところであります。


Program Note;
Date: July 1, 2023
Venue: Shirakawa Hall, Nagoya
1. Schönberg: Walzer für Streichorchester
2. Berg: Violinkonzert
3. Schubert: Overture im Italienischen Stile D.590
4. Mozart: Sinfonie D-Dur Köchelverzeichnis 385 „Haffner-Sinfonie“
Violin: Mayuko Ishigami
Conductor: Motonori Kobayashi
Aichi Chamber Orchestra

 

 

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クラウス・マケラ指揮パリ管弦楽団

 クラウス・マケラは26歳にしてオスロ・フィルとパリ管弦楽団の要職に就き、更には世界最高のオーケストラの一つ、オランダの王立コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者となることが予定され…などの能書きはともかく、この日眼前に現れたマケラの、神々しいまでの圧倒的存在感は何なのだ。まずステージ上の立ち居振る舞い。曲を始める前に肩幅くらいに開脚して指揮台上で構える、あのポーズからして五輪代表の体操選手のように美しい。その後の指揮台上の動きも流麗で、舞踊的ともいいたくなる。その華麗さを象徴していたのはプログラム後半「春の祭典」第1部。「大地の踊り」の喧騒からの突然の静寂。そのときマケラは右腕を高く挙げ、手にしていた指揮棒は高く天を指していた。え!?なんかロックスターみたい!あんたフレディ・マーキュリーかよ!それともマイケル・ジャクソンですか!? こんな姿を、クラシック音楽のコンサートで見せつけられるとは思いもしなかった。

 そんなクラウス・マケラの指揮者としての仕事はどうだったか。この日のプログラムは20世紀前半のフランス音楽が並んだ、まさに「100年前のパリのコンサートホールでどんな音楽が鳴っていたか」的なものであったが、指揮者とパリ管弦楽団はその時代の特徴を見事に描き、表現していた。最初の曲であるドビュッシー「海」を特徴づける音楽的明暗の表現、「闇」から「光」、そして逆に「光」から「闇」へと移ろう音楽の、その明暗のコントラストは出色であった(マケラが来日中に撮影し、SNSで公開した画像を想起させた)し、それ以降の楽曲(ラヴェルボレロ」とストラヴィンスキー春の祭典」)においても大編成での楽器の音が混ざり合う、その色彩の妙を愉しむことができた。

 だが、マケラの指揮者としての特徴は、別のところにあるように感じられた。ひとつは各パートの奏でる音、そのひとつひとつがどれも明瞭に耳に届くし、そしてどの音にも音楽的意味が感じられたこと。一音一音がとても丁寧で、なんらかのニュアンスが込められたり、一ひねりが加えられたりしているのだ。まるで一手ずつ慎重に駒を指していく棋士のように、熟考を重ねながら音が繰り出されていく。結果として重々しいサウンドにはならないのだが、その慎重な音楽作りが実に若手らしくないというか、ベテランでもここまで丁寧にやらないだろうなあ、というくらいのレベル。

 もうひとつ。マケラはスコアに書かれた音の数々を実に形よくデザインし、立体的な交響楽に仕立てる能力に秀でているように感じた。作曲家の脳内の設計図を楽譜にしたスコアがそのまま音になり、さらにそれが美しいフォルムとして造形されている。これはまさに優秀なデザイナーの手によって生み出された工業デザインのごとき世界観だ。

 以上二つの特性が一番発揮されていたのは「ボレロ」。おなじメロディーが何の変形もなく最後まで続いていく作品。代わりに変化するのは音色(=楽器)、そしてダイナミックス。なのだが、そのなかでもマケラはサキソフォーンだったりトロンボーンだったり、各シーンでちょっとずつニュアンスを変えていき、結果として音楽表現の「幅」に広がりを与えていた。一方楽曲のフォルムという点においては、スネアドラムと同じリズムを刻む楽器が、とても適切かつクリアで、かつ「いい音」で聴こえてきた(とくにファゴットとホルンが吹いていた場面)。これにより「ボレロ」の曲の構造が明確となり、音楽的造形美が生み出されていた。

 ドビュッシーの「海」に話を戻す。第3楽章後半のクライマックスで、いろんな音が束になって押し寄せてくる、その瞬間のとても輝かしい響きを耳にし、なぜか「ああ、彼がいればクラシック音楽もあと数十年は滅びることなく生き残るかもしれないな…」と思ってしまい、そして泣けてきた。まさかこの曲で…と思いつつ、人生も第4コーナーに差し掛かると、そんなこともあるかもな。。。

 

Program Note;

Date: October 23, 2022

Venue: The Festival Hall, Osaka

1. Debussy: La Mer

2. Ravel: Boléro

3. Stravinsky: Le Sacre du printemps

4. (Encore) Sibelius: Valse Triste (in memory of Philippe Aïche)